『日本は西洋列強国に植民地化されるか、戦うかの選択に立たされ、しかたなく戦争に打って出た』
そう聞いても、ピンとこない人は多いかと思います。
学校教育で自分の国の歴史観に負の印象を植え付けているのは、世界広しとも日本くらいではないでしょうか。
大日本帝国政府や軍部の無謀な判断が間違っていたのだ!と頭ごなしに信じる人が多いのも当然です。
この思い込みを植え付けるのは、学校だけに収まらず、テレビ、新聞、映画、多岐にわたります。
以下は私の周りの人に、「日本がもし戦争をしなければ、欧米の植民地になっていたかもしれない」と言った時に返された言葉です。
「アメリカ人は紳士だから、植民地支配されてもさほどの苦難はないんじゃない?」
「かえって、貧しい日本やアジアの発展を早めてくれたかも」
「戦争なんかするくらいなら、植民地に追い込まれたっていいじゃないか」
私は戦争反対の立場であることは勿論です。しかし、あの時代にアジア人が白人の植民地にされることの恐ろしさも考えておくべきだと考えます。
欧米がやってきた植民地の正当化
私たちは歴史の授業で、16世紀に大航海時代があったと教わっています。
その時代が欧米諸国が競って発展途上国の土地、財産、資源、人を強奪し合っていました。
近代兵器を武器に、勝手に入ってきて勝手に「俺たちの土地だ」と言って人々を殺すか奴隷にして、資源や財宝を奪って行ったのです。
まだ当時、小国だったポルトガルは、アジアであるインドネシアの「マルク諸島」を武力征服、植民地にすると、現地で収穫できたスパイスの原料で大儲けし、ヨーロッパの中でも大国の仲間入りを果たします。
そこに対抗馬として大国スペインも、次々と途上国を植民地という名のもとに征服支配します。
スペインは中南米で勢力を拡大し、アジアではフィリピンを植民地化します。
ポルトガルはアフリカと南米、そしてやはりアジアに目を付けインドネシアで拡大を図ります。
両国は「新世界の開拓」に躍起になって、各地で紛争が絶えなくなります。
そこで当時のローマ法王の承認で、ある条約が結ばれます。それが「トルデシリャス条約」です。これはヨーロッパ以外の地球上の土地を勝手にスペイン領とポルトガル領に分割するものでした。
西アフリカ沖の海上の起点を中心に東側がポルトガル領、西側がスペイン領と勝手に2分割にしました。
ここでキーワードとなるのがローマ法王、すなわちカトリック教会が植民地化を正式に認めている事です。
キリスト教には動物は神から与えられた恵みであり、食しても構わない物という考えがあります。
同じ命である「人間」と「動物」をはっきり区分けして、動物を殺す事には罪悪感がありません。
これは狩猟民族であった、ヨーロッパ人の生業を正当化する教えです。
つまり当時の白人は、現地の有色人種を「動物」のグループに分類していたのではないかと推測されます。
南米大陸では太平洋側はスペイン、大西洋側はポルトガルが勢力を拡大していきます。
当時の南米大陸には先住民族が平和に暮らしていたし、彼らは文明をも築いていました。
スペインは高度な文明をもったアステカ帝国や、インカ帝国を次々と滅ぼしていきます。
その殺害方法からも、現地の人を人として見ていないという事が解ります。
現地で布教活動を行っていた司教「ラス・カサス」は、南米での大量虐殺を見かねて、国王カルロス1世へ現状報告をします。
それが有名な『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』です。
この報告書から少し引用します。
インディオについてラス・カサスの印象
「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。
したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。
・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。
彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。
この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。
・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。」
スペイン人のインディオに対する残忍な行動に対しての訴え
「スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んで行った。
この40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。
例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。
・・・この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所行のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである。それどころか、私は、1500万人以上のインディオが犠牲になったと言っても、真実間違いではないと思う。」
「彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。
彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮かべて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。
こうして彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。
こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。
インディオたちの領主や貴族たちを次の方法で火あぶりにした。
地中に4本の棒(柱)を立て、その上に細長い鉄灸のような物を作り、その上にインディオを寝かせて縛り付ける。
その下でとろ火を炊いて、ジワジワと殺した。
悲鳴はやがて絶望へと変わっていく。
私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。
キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変わらず、人類を破滅へと追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道で血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に籠もったり、山の奥深くへ逃げ込んだりして、身を守った。
すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。
・・・インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に希有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしという掟を定めた。
参考:https://www.y-history.net/appendix/wh0901-048_1.html
この報告書が書かれたのは、侵略から約40年当時です。
侵略から80年の間に殺害された先住民族は、最低見積で3千万人、最大見積で1億人と言います。
結局、インディオ保護に取り組もうとした司教ラス・カサスは植民者に追い出されてしまい、スペインに帰国します。
キリスト教の布教という大義名分のもと、白人による有色人種(彼らからすれば動物)の虐殺、略奪が平然と行われていた。
中にはラス・カサスのような、本当の聖職者もいたが・・・
これが、白人(キリスト教徒)による植民地の本当の姿です。
その後、植民地の勢力図はオランダ、イギリスに移り、遅れてフランス、アメリカが追随します。
イギリス、オランダ、フランスはそれぞれに東インド会社を立ち上げますが、今でいう会社とは違い、政府とは別であるが武力を背景に植民地運営や貿易による利益を略奪していました。
オランダによるインドネシアの植民地支配は残虐を極め、ドゥマック県では33万人いた原住民は12万人に、バリ島のクロボカンでは約9万人いた原住民は9千人と10分の1にまで減ってしまいました。
オランダはその後300年以上にわたり、インドネシアを植民地にして搾取し続けました。
インドネシアからオランダ軍を追い払ったのは大日本帝国軍でした。
300年後、ヨーロッパのどの国よりも軍事力があった大日本帝国軍は、たったの9日で追い払うのでした。
繰返しますが白人によるキリスト教文化圏の人間にとって、有色人種は動物とみなされていたのです。
その後18世紀になるとイギリスが表舞台の主人公になります。イギリスは北米インディアンを虐殺し、奴隷化し、略奪を繰り返しました。北米の西海岸のインディアンをほぼ絶滅させるほどでした。
またイギリスがインドの植民地化に成功すると、ベンガル地方では住民の3分の1が死に追いやられました。
その後イギリスの植民地であったアメリカを独立戦争で手放してしまうと、次はオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカに手を伸ばします。
そこでも残虐な白人主義を振りかざし、虐殺、奴隷化を繰り返します。
オーストラリアでは、白人たちがまるで七面鳥を撃つようにレジャー感覚で先住民アボリジニを虐殺していったのです。
オーストラリアのアボリジニは、100万人いたのが100年後には6万人になり、タスマニア島ではアボリジニは絶滅してしまいました。
ニューサウスウェールズ州立図書館にある資料には、1927年の日付で「今日の収穫アボリジニ17匹」とあるそうで、当時は日曜日になるとレジャー・ハンティングでアボリジニ狩りをしてたのです。
アメリカでも先住民インディアンに対する残虐性は、スペインの南米植民地時代をも上回るほどと、当時のアメリカ陸軍士官ノックスが語っていたそうです。
これら白人による有色人種の残虐行為は、キリスト教徒の神の教えの拡大解釈で正当化されたのです。
いまのイスラム国のジハードと変わりありません。
これが白人による「植民地支配」の真相です。
イギリスはオーストラリアやニュージーランドに半独立国家とされ、大きな収穫が見込まれず、アメリカは植民地競争で大きく遅れを取っていたので、両国は東アジアへの着手を模索します。
特にアメリカは当時、日本が実行支配していた満州が欲しくて日本が邪魔な存在となるのです。
日本がとった対抗策
明治維新の後、日本は欧米列強に対抗すべく国力を持たなくてはインドネシアやフィリピンと同じ運命をたどることを懸念し、富国強兵を急ぎます。
軍事、文化、政治、教育制度、経済で著しく進歩した日本は、欧米列強からアジアを守るべくアジアを連合体としてまとめ上げ、欧米に対抗することを考えました。
それが「大東亜共栄圏構想」でした。
詳しくはこちらの記事で紹介しています。
今回は長くなってしまったので、ここで終わりたいと思います。
続編もよろしくお願いします。
今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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