「やつとはお互いに、本音をぶつけ合う仲なんだ」とか「互いに遠慮のいらない兄弟のような関係」って親友との絆を表現するときに言ったり、聞いたりしますね。
逆に「あいつは本音を語らないから、信用ならない。」なんて距離を詰めてこない友人を非難したりもします。
そうは言っても、
大人になればなるほど本音で付き合える人は少なくなるものです。
…ということは、若い頃はまあまあ居たはずの「本音で付き合える人たち」はどこへ行ってしまったのか?
私の場合、学校が別になった、引っ越した、仕事が忙しくて、交わるグループが変わったとか、環境の変化で自然に消滅したような感じです。
それでも、また会えば昔と同じように付き合えるんですが、時が経てば経つほど、価値観や物の見方のヅレを感じることが多くなります。
昔なら本音トークをバンバンぶつけても、意見が合わなくても尊重しあえた仲なのに、今は違和感を感じたりします。
また、敢えてワザワザ会おうとは思わない、過去の”本音付き合いができた友”も何人かいます。
なんか面倒くさいというか、多分話していてもあまり気分が良くなかったんだと思うからです。
美輪明宏さんが説く腹六分の付き合い
美輪明宏さんが、人付き合いは腹6分が丁度いいと仰っていました。
いわく、昔は日本では親子、兄弟でも敬語を使っていたと言います。
確かに江戸時代ばかりでなく、戦前の日本を描いた映画でもそのようなシーンを目にしたことがありませんか。
父を指す言葉も、江戸時代なら「父上(ちちうえ)」戦前なら「お父様」、それが今や名前で読んだり、おやじ、やあだ名なんてケースもあります。
もちろん、普通に「お父さん」と呼ぶ家庭が大半だと思いますが。
更に昔の親たちは子供に対しても、「○○さん、△△してくださいな」なんて敬語を使っていました。
それが今は子供に「何やってんだ!オメーは!!」と言葉を吐く・・
と、三輪さんは上記のようなニュアンスのエピソードを、お話ししていました。
なるほどと思いました。
ただ私は、昔でも全ての家庭が当てはまるのでなく、敬語など使わぬ家庭は沢山あったと思います。
昔から飲んだくれのダメオヤジは居たし、映画でも貧しい農家などの家庭のシーンでは敬語はありません。
とは言え、今よりは断然に昔の方が敬語を使う家庭は多かったでしょうね。
中国の偉人「荘子(そうし)」の教え
戦国時代の中国に産まれ、思想家で、道教の始祖の一人とされる「荘子」の教えに、こんな言葉があります。
「君子之交淡如水、小人之交甘如醴」
これを訳すと「君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」となります。
うーん、これでもよく解りませんね。
ちなみに醴(れい)とは、甘酒のような甘くてベタベタしたものだそう。
意味はこうです。
「立派な人物の交際は、水のように淡白であり、つまらない人間の交際は甘酒のようにベタベタしている」ということです。
つまり、知恵ある人は他人との付き合いでは深入りせず、あっさりしたものだそうです。
本音で付き合うというのは、ときにはプライバシーの垣根や、人の心や生活にズカズカと土足で踏み込むことにもなりかねない関係になります。
カギは本当の「自立」にある
ここでの自立は、親から離れて「一人暮らしをはじめる」とか「社会人になる」というようなことでなく、「経済的自立」のことでもありません。
「精神的自立」のことを指しています。
「嫌われる勇気」の本のヒットで有名になった、オーストリアの心理学者「アルフレッド・アドラー」はこの精神的自立を「他者から支配されず、自分の価値は自分で決めること」としています。
こらは、アドラー心理学的には「課題の分離」と「承認欲求」と関わってきます。
なんだか難しそうな言葉が出てきましたが、簡単に言うと・・
課題の分離とは「他人の課題と、自分の課題を切り分けて考える」こと。
承認欲求とは「他人や自分から、認められたいと願う欲求」のことです。
課題の分離では、「その問題はその人が向かい合うべき課題で、他の誰かが問題に対して「あーしなさい」「こうしなさい」と土足で立ち入るべきだない」と考えます。
反対に自分が抱えた問題に対して、誰か他の人に「あーしたら?」「こうしたら?」と言われても、自分で判断して他人に振り回されないことです。
この考えが真に、自立した考えとなります。
対して承認欲求は、他者の目や気持ちを基準に自分の価値を計るもので依存した考えとなります。
さて、こここで「本音で付き合いたい」という人の気持ちに戻ります。
「本音で付き合いたい」であり「本音で敵対したい」ではないので、そこにはやっぱり承認欲求が見え隠れし「依存」が浮き彫りになります。
「お世辞とか上っ面で良いこというのでなく、本音で良いこと言ってくれ」なんです。
「良いこと」とは自分も賛同できること、共感できること、自分を承認してくれるようなことです。
そうでない事はみな「嫌なこと」となりますから・・
でも時には「嫌なこと」があったほうが、次の「良いこと」が余計に信頼出来て良い、というわけですね。
かなり他者に依存した考え方になります。
対して腹6分から8分の人は、他者からの評価を当てにせず自分を認めることが出来ます。
何よりも「課題の分離」を大前提にして生きていますから、他人の課題にわざわざ首を突っ込むような事はしないということです。
結局、自立している訳ですね。
この記事では腹6分から8分と表現していますが、その辺の間隔は人それぞれです。
多少加減を見誤り失敗したら、次のときの勉強と思いその都度微調整すればいいのではないでしょうか。
深く考えすぎず、構えず腹6分で人付き合いができたら、ストレスもなくスムーズに人間関係を渡り歩くことが出来るのではないでしょうか。
まとめ
出会った人と、とても気が合い、意気投合するとその人との関係を大事に考えるものです。
そうした人ほど、”ある一線”を決めてある程度距離を保った方が、永く付き合えるのではないでしょうか。
相手に依存した途端、関係は違うものへと変わっていくのかもしれませんね。
本日も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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