今回は多くの著名人や、偉人が尊敬し、師と仰いでいた「中村 天風(なかむら てんぷう)」さんについて簡単に解説します。
中村天風は、明治から昭和まで生きた元軍人、元経営者、哲学者です。
中村天風の男気に惚れ、実践哲学者としての教えに惚れ、たくさんの大人物が教えを乞い、模範としています。
世界有数の大富豪、ロックフェラー3世夫妻が、天風のアメリカ講演を熱望し、何度もラブコールをしたほどです。
結局、アメリカ講演を断り続け、実現しませんでした。
ほかにも経営の神様「松下幸之助」、京セラの創業者「稲盛和夫」、日本電産創業者「永守重信」、ゼロ戦開発者「堀越二郎」、大リーガー「大谷翔平」、元テニスプレイヤー「松岡修造」、元横綱「双葉山」など挙げればきりがありません。
中村天風の人間ストーリー
天風の一生は、波乱万丈なんて言葉じゃ言い表せないほど壮絶でした。
そんな人生だから大まかに書いても、とんでもない長文になりそうなので、足早に端折って解説します。
中村天風 少年~青年時代
● 明治9年7月13日、東京の王子で生まれた中村天風こと、本名=中村三郎は、明治、大正、昭和、日本と世界の激動を渡り歩き、昭和40年代まで生きました。
● 天風は生まれて間もなく、九州の親戚に預けられます。
6歳になると、遠縁にあたる「柳川藩藩主の立花家」に伝わる剣術「随変流(ずいへんりゅう)」の修行をはじめます。
天風は若くして随変流剣術を極め、高校にあがるころには達人になっていました。
● 高校では柔道部に入り、活躍します。
ある日、天風所属の柔道部は他校と練習試合をします。
試合では相手高校に勝ちますが、帰り道、相手校の柔道部に腹いせのリンチを受けます。天風1人に対し、相手は10人以上でした。
翌日天風は、相手校のリンチメンバーの自宅を一軒一軒まわり、お礼参り(報復)をします。
最後、相手大将の自宅を訪れると、相手は出刃包丁を持って襲いかかってきました。
そこで揉み合い、相手を刺してしまいます。
そして翌日、相手の大将は病院で亡くなりました。
この事件、天風は正当防衛として無罪にはなりましたが、学校は退学となります。
● 天風は東京に戻り、日本初の右翼団体とも言われ、欧米からアジアを守ることを理念とした政治団体「玄洋社(げんようしゃ)」に身を寄せます。
そこで天風が師と仰ぐ1人目の人、「頭山 満(とうやま みつる)」と出会います。
頭山は「玄洋社」のトップで、実にふところの深い大物であったそうです。
● 玄洋社は、暗殺などのテロも辞さない過激な政治団体で、全国のアバズレが集まっていました。
その中で天風は「玄洋社の豹」と呼ばれ、恐れられました。
天風という名は、随変流の技で回転しながら剣を抜く「天風(あまつかぜ)」をよくやっていたことから、頭山に「天風(てんぷう)」と名乗れと言われたことによります。
中村天風 軍人時代
● 天風が16歳のとき、日本は日清戦争に突入する寸前でした。
そんなとき陸軍の軍事探偵中佐が玄洋社を訪れ、頭山に「ここで一番命知らずの者を、預けてほしい」とスカウトに来ます。
頭山は、天風を差し出しました。
軍事探偵とは、今でいう諜報員、スパイ、偵察隊のことです。
これより中村天風は、日清戦争、日露戦争と軍事探偵として、おもに満州(今の中国)で死線を行き来するような活動をおこなうことになります。
● 手かせ、足かせ、首かせをはめられ、深い穴に放り込まれる。
軍事探偵は、隠れたり、だましたりしながら、敵地に単身で乗り込み情報を取るのが仕事。
はじめから多勢に無勢な状況下で活動します。
なので、失敗すればすぐに捕まり、殺されてしまいます。
その日も、敵に捕まり「手かせ、足かせ、首かせをはめられ、深い穴に放り込まれる」ということになりました。
そのとき天風は
・・と空を見ながら情景を楽しんだと言います。
● 満州でのこと。
天を仰ぐような大男が青龍刀(せいりゅうとう)をブンブン振り回し、威嚇しています。
相手は満州の馬賊。
向かえる天風は仕込み杖を抜いて構えるが、仕込み杖とは杖に似せて作った隠し武器のこと。
ぶっとい青龍刀と違い、刀としての性能は十分とは言えません。
もし刀どうしが交わえば、もろくも折れてしまうかもしれません。
18歳の天風にとって、これが初めての真剣勝負です。
体が震え、臆病風が吹いたとき、6歳のころ剣術を教えてくれたお爺ちゃんの言葉を思い出します。
“腕前より、度胸がまさる者が勝つ”という教えです。
はたとそれを思い出したとき、もう体が動いていたそうです。
どう切り込んだのか解らないまま、気づいたら相手は倒れていたと言います。
● 日露戦争では、騎兵隊コサック兵に捕まります。
処刑前日、敵の看守が天風に嫌みのごとく語りかけます。
「明日の早朝、おまえは銃殺されるそうだぞ」
対して天風
そう言い放つと、大の字になってグーグー熟睡したそうです。
ちなみに天風は、語学は堪能で英語、中国語をマスターしていました。
当日、銃殺刑のため天風は木柱に括りつけられます。
その時も、こんな事を相手に言います。
こうして天風は、相手を睨みつけたまま銃殺刑を向かえます。
そのとき密かに助けに来ていた日本軍が、手榴弾を投げつけ救出を開始します。
味方兵が、天風を縛っている木柱ごと引っこ抜き、抱えて走っています。
天風から見て「こいつら・・俺より焦ってやがるな」
と傍観していたようです。
日露戦争終結 病気との闘い
日露戦争終結の翌年、明治39年。
天風は悪性の結核を、患ってしまいます。
奔馬性(ほんばせい)の肺結核と言い、進行が馬のように速足という結核です。
明治末期に結核の診断を受けるということは、そのまま死を意味します。
当時、結核は不治の病でした。
戦場では、命知らずの天風でしたが、病気になるとすっかり気がめいってしまいます。
病気というのは、身体だけでなく心も弱くするものだと悟ったそうです。
しかし、そんな弱気な自分に活を入れようともがきます。
そして、わずかな可能性を信じて、治療のために欧米に渡ることを決意します。
当時の移動手段は主に船です。
結核の患者に渡航許可は下りず、つてを使って密航します。
● アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど様々な国を訪れては、名医や哲学者と会って救いを求めます。
イギリスで会った人の中の1人に「病気のことを忘れなさい、そうすれば病気は治る」と言われます。
心には響いたが、忘れ方が解らない。
結局、欧米に見切りをつけて、祖国の地で最期を迎えようと決意し、日本に帰る船に乗ります。
しかしなんと、その船の中で2人目の師と仰ぐ、ヨガの聖者カリアッパと出会います。
カリアッパは船の食堂で、たかるハエに指をさすと、ハエがピクとも動かなくなり、それをお付きの人が箸でとって灰皿に捨てていたと言います。
その様子を見ていた天風が、カリアッパに呼ばれ病気のことを当てられたそうです。
天風はこのままカリアッパに付いていき、インドの山奥で修行に入ることにするのです。
● インドの山奥での修業は、約2年半続きました。
修行の中身は、毎日10キロの石を背負って、6キロメートルの山に登り瞑想したり。
人の声もかき消されるような、滝の轟音の中で瞑想し、虫や鳥の声を聴き分ける。
冷たい川の中に入るなど、さまざまでした。
それでもカリアッパは、インドに着いてすぐ天風を修行させたのではありませんでした。
身分制の激しいインドで、天風は奴隷として連れてこられ、家畜以下の身分なので家畜と一緒に寝ていました。
来る日も来る日も、雑用ばかり。
思い切ってカリアッパに、聞いてみました。
「いつになったら、修行をしてくれるのですか?」
言われた通り、器に水を張って持ってきました。
すると今度は
別の容器に、お湯を入れて持ってくると
カリアッパは「器にお湯を入れなさい」と言います。
天風は答えます。
「器の水がおまえだ」
「おまえの頭には、古い屁理屈がいっぱいに入ってる」
「これでは、新しい教えを湯のごとく注いでも、お前には受け取れまい」
ここで、天風は「自分は修行する準備ができていなかったのだ」と気づいたそうです。
カリアッパは
「病気のことを考えるな」
「病気を気にしているから治らない、忘れろ」
と繰り返します。
天風は修行が進むにつれ、病気を忘れることができたようでした。
このインドの修行で、天風はすっかり元気になり、悪性の肺結核も自然治癒してしまうのでした。
日本に帰ってインドの修行を体系化
日本に帰ると、天風は複数の会社を経営し事業家となりますが、傍らで玄洋社の仕事もしていました。
1人目の師である、頭山満と出向いた会合で、壇上からヨガの経験について講演します。
この時決意します。
心・精神の可能性を世に伝え、救世の仕事に就きたいと。
そしてヨガから得た効能や、カリアッパからの教えを体系的にまとめ、実践方法まで考案し、世に広める活動を起こします。
これは、日本が太平洋戦争に入る前のことです。
天風の教えは「エセ科学」と揶揄(やゆ)されることもあるが・・
天風の教えは今、「公益財団法人天風会」によって引き継がれています。
先に書いたように、多くの偉人が天風の教えに影響を受けている一方、「天風の精神論や気の使い方など、証拠も確証もないエセ科学だ」と批判する声も聞こえます。
天風は亡くなる間際、弟子に「俺の教えは一切忘れろ」と言ったという話もあります。
これについての僕(筆者)の見解はこうです。
■ 天風が最後に、本当にそう言ったのかも怪しい
天風は93歳で亡くなった、92歳で亡くなった、95歳で亡くなった・・
死因もガンとか、老衰とか・・
所説ある中、最後の言葉について”言った・言わない”も、疑わしく思います。
■ もし、最後の言葉がウソなら得する人がいる だから余計に怪しい
が、誰かのウソだとしたら、得する人はだれか?
を考えると、当時注目を集めていた武道家が浮かび上がります。
■ 中村 天風の編み出した技、「クンバハカ」の真実性
① 肩の力を抜き(落とし)
② 丹田に気を込め
③ 肛門を締める
というもので、これによって、精神が落ち着き、身体も健康な状態に向かうということです。
肛門を閉める行為、これは気を瓶に密閉するのと同じと説明しています。
と思った僕は、調べてみました。
すると、ヨガの技法で「ムーラ・バンダ」という、肛門を締めるテクニックがありました。
ヨガの考えでは、肛門を締めつけることで生命エネルギー(ヨガの考えではプラーナ)を外に漏れないようにすることだそうです。
中村天風さんの教えと考えと、ほぼ同じ。
天風が教わったヨガは密法であり、世に簡単にでまわるものではない。
今のヨガは、ストレッチや美容など身体的なものがフォーカスされるが、天風の教わったヨーガは、精神面の方がフォーカスされている。
ということで、今の社会の在り方では、天風の教えに対してエビデンスをとるのは難しいと思う。
中村天風の教え
中村天風の教えは、奥が深く、多岐にわたり、とても厳しくもあります。
しかし実践方法については、だれでも取り組めるよう、心身統一法という形で体系化されています。
先ほど紹介した、クンバハカ、安定打座瞑想法などがあります。
中村 天風のことば
■ きょう一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ
(これくらいの事で怒ってたまるか!という負けない気持ち)
■ 感謝するに値するものがないのではない。感謝するに値するものを、気づかないでいるのだ。
■ 人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。
■ 言葉には人生を左右する力があるんです。この自覚こそが人生を勝利にみちびく最良の武器なんですよ。
■ 人生積極的(ポジティブ)に生きると決意するんですよ。
僕としては
「愛の心を大切にし、自分を信じて、宇宙を信じて、ポジティブな考えと言葉を使いましょう」
と言っていると受け止めます。
今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。