今回も、これまでの
に続いてD・カーネギー著の「人を動かす」から抜粋して、人との関わり方について書いていきたいと思います。
かの、斎藤一人さんがある著書の中でお薦めしていた本です。
この本はビジネス書として、人気が高い一冊ですが、家族、友人、恋愛においての人間関係にも大いに役立ちます。
興味ある方は是非、一読をお薦めします。
誠実な関心を寄せる
カーネギーは人から愛されたいのであれば、犬を見習いなさい!と言っています。
彼ら(犬たち)は主人(飼い主)に対して純粋な関心を持って接しています。
また、カーネギーは本の中でこのような事を言っています。
「人は他人のことには関心を持たない。ひたすら自分のことに関心をもっているのだ-朝も、昼も、晩も」
ここに注釈をいれるとすれば、柔軟に家族や愛している人のことも「自分」というテリトリーの中に入れて読み解いていったほうが著者の言わんとすることが理解し易いと思います。
「まず、あなたが他人に関心をもたないとすれば、どうして、相手があなたに関心を持つ道理があろうか?」
これは、人間関係のみならず商売もそうですよね。
営業やってる人は解ると思います。
話しは戻りますが、上の一節は当たり前の話と思われがちではありますが、もっと深い意味があると感じます。
例えば、忙しい時などはついつい自分のことで頭はイッパイになってしまうものです。
楽しいひと時に良い人でいられるのは当たり前、イザというハプニングの時にその人の本当の人柄が現れるものとよく言われますよね。
カーネギーの「他人に興味を持つ」という意味は「心を亡くす」と言われる忙しい時、イザの時でもということを指しているのでしょう。
カーネギーが以前、ニューヨーク大学で小説の書き方の講義を受講したときに、講師が言っていたのは「作者が人間を好きでないのならば、世間の人もまたその人の作品を好まない」「もし、諸君が小説家として成功をおさめたいのであれば、他人に関心を持つ必要がある」と熱心に解いていたそうです。
この小っぽけなブログでも、書き手の身としては背筋を伸ばす思いがありました。
ウィーンの心理学者アルフレッド・アドラーは著書の中で「他人のことに関心を持たない人は、苦難の人生を歩まねばならず、他人に対しても大きな迷惑をかける。人間のあらゆる失敗はそういう人たちのあいだから生まれる」と言っていたそうです。
この一文も裏を解けば、愛・気遣いを持って行えば、世の中大抵のことはうまくいくということなのでしょう。
交通社会一つを例にとっても、おおいに当てはまります。
ここで一つ、絶大な人気があった、かつてのアメリカ大統領のエピソードがありましたので、紹介しますね。
その大統領は、セオドア・ルーズベルトです。
セオドア・ルーズベルト
(写真 ウィキペディアより)
(第二次対戦中の大統領はフランクリン・ルーズベルトです。セオドアは親日派ではありましたが、日露戦争で日本が勝利すると「日本脅威論者」となります)
次のエピソードはそのルーズベルト大統領の黒人召使、ジェームス・エーモス(男性)が書いた「召使の目から見たセオドア・ルーズベルト」という本の中の一節だそうです。
ある日のこと、わたしの妻が大統領にウズラはどんな鳥かと訪ねた。妻はウズラを見たことがなかったのである。
大統領は、ウズラとはこういう鳥だと、噛んでふくめるように教えてくれた。
それからしばらくすると、わたしたちの家に電話がかかってきた。
(エーモス夫妻はルーズベルト大統領邸内の小さな家に住んでいた)
妻が電話に出ると、相手は大統領ご自身だった。
「今ちょうどそちらの窓の外にウズラが1羽来ているから、窓からのぞけば見えるだろう」と、わざわざ電話で知らせてくれたのである。
この小さな出来事が、大統領の人柄をよく示している。
大統領がわたしたちの小屋のそばを通るときは、わたしたちの姿が見えても、見えなくても、必ず「やあ、アニー! やあ、ジェームズ」と親しみのこもった言葉を投げて行かれた。
今も、昔も人との関わり方のコツは何も変わらないですね。
紀元前100年のローマの詩人パブリアス・シラスが
「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる」と既に言っていたそうです。
最後に、もうひとつ、D・カーネギーが言っている言葉を載せて今回は終わりたいと思います。
「友をつくりたいなら、まず人のためにつくすことだ。
人のために自分の時間と労力をささげ、思慮のある没我的な努力をおこなうことだ」
今回のいろいろな例ですが、関わりの薄い人ほど容易く、身近な人にほど難しいと思いませんか?
たぶん、それは甘えや「〇〇べき」、「〇〇なはず」などの執着が邪魔をしているんだろうな・・と私も反省させられました。
今回も最後までお読み頂きありがとうございました。
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