今回は「人生が変わる! 無意識の整え方」という本を読んで、共感したことを私の中で繋がった他の知識と織り交ぜながら記事にしたいと思います。
ミステリー・ロマンが好きな人は、この無意識という未解明の領域について想いをはせてみるのはいかがでしょうか。
この「無意識」の解明をすっ飛ばしたまま、生命学はもちろん、物理学も解明されず何万光年離れた場所への宇宙旅行もできないでしょう。
実はこの本、武田鉄矢さんに教えてもらったんです。
朝のラジオ、文化放送の「なな→きゅう」っていう番組の中の「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」ってコーナーがありまして、色々な本を武田鉄矢さんが解り易くまとめて伝えてくれるんです。
武田鉄矢さんは本の中に書いてあることを、自分の持っている知識と融合させて、自分の意見を織り交ぜながら話してくれるので、すごく解り易く面白いんです。
ま、話の脱線はチョクチョクなんですけど、それもまた味があって良いんです。
私たちの意思(意識)が考える前に、無意識が答えを出している
話を戻しますが、この本には1つの重要な仮説を元に、その仮説の意味を見出すような対談本です。
著者の前の先生が対談する相手は合気道の達人、僧侶、森とコーチングのスペシャリスト、医師の4人です。
「重要な仮説」とは、人の行動は意識が決めているようで、実は意識の前に無意識が決めていて、後付けで意識が「自分が動かした」と記憶しているだけ。というものです。
本によると、1983年、カリフォルニア大学さんフランススコ校の医学部神経生理学のリベット教授がある実験結果を発表しました。
脳にある「動かそうと」と意図する働き(意識)と、筋肉を動かせと脳が指令する随意運動野(無意識)の働き、そして実際に指が動くタイミングを測定する実験でした。
その結果は驚くべきものでした。
筋肉を動かすための運動神経の指令(無意識)は、心が「動かそう」と意図する脳の活動(意識)よりも0.35秒も先だということがわかったのです。
つまり意識して「指を動かした」はずが、意識より0.35秒「先に指が動いている」という結果です。
周知のように、私たちは歩くときいちいち「右足を出そう、次に左足を・・」などと考えることなく、自動運転で歩いています。この自動運転を司っているのが「無意識」です。
普段なにげなく行っていることは「無意識」が担当し、ここぞという場面では「意識」が行っているはずでした。
ところが、この実験になぞると意識が行っていることさえも、無意識が決めていたということになります。
前野先生は、「自由意志のようなものは、本当は存在しない錯覚なのです。」とも仰っています。
ただ、この仮説に対する反論も多く存在します。
受動意識仮説は似非(エセ)科学か?
ネット上には前野教授が主張する「受動意識仮説」に対する反論、”エセ科学だ!”という声も沢山見かけます。
やはり、多いのは「意識はすべて後付けの記憶だから、主導する意識や自由意志は存在しない」という意見への反発です。
私も確かに1つや2つの実験結果があるからと言って、全ての「意識的行動」に当てはまるというのは強引な気がします。
「自由意志は存在しない」と、そこまでは今の段階では言い切れないと思います。
でも今の科学で実証できない仮説をどれも切って捨てては、それこそ科学の発展はなくなってしまうと思うのです。
このような物質科学から逸脱した分野に、本気で取り組む学者がいるのは素晴らしいことだし、物理学、特に量子力学ではこのような分野に近づいているとさえ思います。
物理学者が目指しているゴール、「セオリー・オブ・エブリシング」とはこの世、宇宙の全てのことがらを説明できる理論のことです。
無意識のような、いわばオカルトチックのように見られている分野にもメスをいれるのは必然な流れだと思うんです。
無意識に限らずオカルトチックな分野で仮説をとなえると、必ず「エセ科学」「再現性がない」「実証や証明ができない」などの反発があります。
ただ、反発している人もやみくもに反発している人もいるかもしれませんが、多くの場合は科学愛や良心から発せられた反発だし、議論は大いになされるべきです。
私は「オカルトっぽい」というイメージだけで、気嫌うのはいかがなものかと問いたいのです。
無意識は波動の海で外次元と繋がっている
私はこの本を読んで、無意識とは異次元、アカシックレコード、ワンネス・・・何なのかは解りませんけど、そのようなものと繋がっている神聖なものに感じてなりません。
異次元といえば、もしかしたら死んだ者たちが行くところもそうかもしれません。
あの世と言われている場所が本当にあるなら、それはやはり異次元の1つでしょう。
子供の頃、私の叔母から聞いた話があります。
叔母がお爺さんのお墓参りをしようと、多摩墓地に出向いたところいくら探してもお爺さんのお墓が見つかりません。
多摩墓地は都立霊園の中でも最大面積があり、東京ドーム27個分の巨大霊園です。
疲れ果てて足が棒になった頃、叔母は木の根っこに足をつまづかせ、よろめいてしまったそうです。
そこで思わずしがみついた墓石が、探していたお爺さんのお墓だったそうです。
この話も偶然で片づけてしまえば、それまでの話です。でも、子供だった私も含めその話を聞いた一同、「爺さんが教えてくれたんだな」と話していたし、感じていました。
木の根っこにつまずいた時、疲れ果てた叔母の足を動かしていたのは、叔母の意思だろうか?
いや、大方の人は目的地が見つからず、途方もなく歩いている時、足の動きを気にしていることはないはずです。
叔母も例外なく、無意識によって足を動かされていたに違いありません。
無意識の領域は、どこか知らない世界と繋がりを持ってる。きっとそうなっているんだと思うのです。
大事なのは無意識の状態がどうあるか
無意識の領域はどこか違う次元の存在と繋がりを持てる、だから「ひらめき」も起こるし、自分でも思わぬことを、言ったりやったりすることがあるのではないでしょうか。
「魔が差した」というのも、こういう原理が働くからなんじゃないかと。
ところで「魔が差した」とは、あまりいい場面では使われませんね。
無意識の領域が他の次元の「何か」と繋がるのであれば、その人の無意識のレベルや状態によっては「悪い何か」と繋がってしまうという事はないでしょうか。
無意識が大海の水だとすると、その中で私たちは意識を持って浮かんでいる船のようだと考えます。
水は波動と言うエネルギーに満ちていて、潮流もある。
潮流によって船が右に傾き始めるとき、私たち船の上の意識は、無意識を正確には把握できない為「なんとなく」という形で右に行くって感じた時、「よし、右に行こう」と決めるのかもしれない。
意識で長期的に(将来は・・)右に行こう、と決めても潮流が渦巻く大海の中の船なので、車がハンドルを切るようには、右には行けないのが無意識の難しさだと思います。
右に舵をきって、きって、ようやくゆっくりと右に船首を傾き始めるんだと思うんです。
まとめ
本のタイトルのとおり、無意識を整えるってとても大事な事かもしれません。
その「無意識の整え方」を4つの違う方面から、解り易く紹介されていました。
この本を読んで、無意識に注意を払うことで人生が良い方向に舵をとり始めるんじゃないかな、と思わされました。
私たちの脳はいつも何かを考えています。そして皆それぞれに「想いグセ」というものがあると言われます。
日ごろの「想いグセ」、後ろ向きなものより前向き、楽観的なものを持っている人の方が、ハッピーになれるというのは、無意識を整えるという面から見ても本当なのかな、と思わされます。
今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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