今、TVでもお茶の間を賑わしている話題で、由緒正しい長野県は善光寺の82歳の管主の男性が、女性職員に対してセクハラ行為や差別発言などのモラハラを日常的に行っていたという話。
スタジオのコメンテーターやキャストの人から「聖職者なのに・・・」などの発言があり、ある意味その発言の方が「えっ?」と思ってしまいました。
お坊さんというと、昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」など憎まれキャラ、いじわるキャラが多々いたと思うのです。
勿論、ご立派なお坊さんもいらっしゃるのでしょうが、中には堕落して、よほど不景気の中で頑張っているサラリーマンの方が身を削った修行をしている(里の業)のではないかと認識しています。
(多くの方々は気付いていることだと思いますが、未だに「お坊さん」と聞いて「立派な人」と連想してしまう人がいるので・・・)
今でもそんな話は後を絶ちません。
今回の管主が白か黒かはこの記事では取り上げません。
正直どっちでも驚きません。
例えば、同じ聖職者と崇められる「学校教員」も何か事件を起こすとそこばかりスポットライトを浴びて「教師全体」が腐敗しているかのように議論されることがあります。
しかし、身の回り、仕事上で出会う教師たちは、一生懸命で情熱があって尊敬できる人もいるし、そうでない人もいます。
でも、私の知る、聞く、お坊さんはまあ、「どいつもこいつも」という教員の比にならないほど、あざとい、いじわる、高飛車、他人の立場をふと考えることさえしない卑劣な人が多いこと。
なんでなんだろう?と私が思うことを記事にしてみました。
あくまでも私個人の見解ですが、同感と思う方も多いのではないでしょうか。
私が知っているお坊さんの「人でなし」エピソード
葬儀屋さんのエピソード
私の妻は葬儀屋さんで仕事をさせてもらっています。
坊さんがホールに入ると、ピーッとスタッフの間に緊張が走るそうです。
それは何故か、簡単です。
坊さんの機嫌を損ねないように、です。
坊さんはホールに着くと出番が来るまで、僧侶専用の控室で準備やら休憩やらしているそうです。
その間、わがままな注文、些細な不備に激怒する人が多いので、葬儀屋スタッフはその坊さんがどんな方か知らなくても、入管すると一応に緊張するそうです。
それだで、理不尽な態度をとる方が圧倒的に多いということです。
※ 私の尊敬する実業家、まるかんの社長「斎藤一人さん」はいつも、「自分の機嫌は自分でとる」と言って周りの人々を笑顔にする天才なんですが、お経を勉強してもダメなら一人さんの本でも読んだらいいのに、と思います。
そして、ある日の出来事なんですが、葬儀のお布施について施主が「支払いが困難で少し安くして欲しい」とお願いしたところ、その坊さんは激怒し仏様、施主、参列者、スタッフを残してベンツに乗って帰ってしまったそうです。
お釈迦さまが言われる「慈悲の心」って何でしょうか?
私の知り合いのエピソード.
今はお坊さんの社会も転勤、出世などの問題もありますし収入も給料制のところも多くあります。
脱サラして頭を丸めるなんて人も後を絶ちません。
そんな私の知り合いも脱サラをしてお坊さんになりました。
「逃げ」とは違い、「志がある」と言ってましたし、私もそうだと思います。
しかし・・・
ある一定の現場研修のような期間がすぎて、いよいよ比◯山での厳しい修行に行く事になりました。
そこで彼は、女子高生のようなとても幼稚で野蛮なイジメに悩まされることになります。
色々なイジメにも屈っすることなく頑張っていたのですが、ついにはイジメ側のリーダーグループから殴る蹴るの暴力を受けるようになりました。
結局、命の危険を感じた知り合いは山を下山してしまいました。
イジメグループは20代から30代に対して、私の知り合いはもう60歳を過ぎていますから。
結局ここでも、要領よく上の人に媚びを売れた人の勝ちのようです。
私の仕事上で出会う坊さんのエピソード
私はアパレルの仕事をしています。その接客の中でお坊さんや色々な職業の方とお話しする機会があります。
すると、お坊さんは何故かマナーが悪く、無茶な要求など、一般の方はなかなか言ってこないようなネガティヴな気持ちにさせられてしまうような言葉を浴びせてくることが多いです。
あくまで私の身の回りのエピソードになりますが。
閉鎖され 甘やかされた環境のせい?
お坊さんという立場上、俗世界からは少し距離を置いた環境だけに深い意味での交流がない。
その上「宗教法人」というだけで様々な優遇を受けた甘~い環境下にいるのも、その原因ではないでしょうか。
私が見る、聞く限り先ほどの修行僧の例は別として、ある程度の年配の坊さんが煩悩、邪念に満ちている方が多いように見えます。
ある程度、権力の座に就くともう、その座を下ろされる心配がないのでしょうか。
上の方の態度は結局、どの職業でもその人の器の大きさにかかりますね。
それが、サラリーマンでも坊さんでも・・・
「学び」を止めたときから坂道を転がりだすのでしょうか。
とは言え、僧侶を真にボランティア精神で行い、お布施に頼らず他の仕事にて生計を建てているお坊さんもいます。
そのような方は里の業、山の業と一般の方には想像もつかないような身の削りかたをしながら、志を持って世の中の為に懸命に行っているのでしょう。
僧侶になろうとした動機も色々あると思います。
例えば今、民間会社では不景気の風にあおられリストラやリストラまでは行かなくても肩を叩かれ、肩身の狭い思いをしている人も多いです。
そのような人が心病み、宗教に目覚めたり、哲学を探求したりするケースもあるわけで、そんなところから、「いっそう、坊さんになってみるか」と一念発起とか。
でも、動機なんてどうでもいいのです。
どんな職業だってそうですから。
その道を心を持って、学びの姿勢で歩んでいけば、それが仏の道であろうが、他の仕事の道であろうが人格は磨かれていくのではないでしょうか?
まとめ
結局のところ、権力とお金は辛い修行を乗り越えて来たお坊さんをも盲目にさせていまうのでしょうか。
私も謙虚な気持ちと学びの姿勢を忘れたくないな~と、身を引き締めていきます。
真面目に世の為、人の為にご尽力しているお坊さんも大勢いることでしょう。
そのような方には不愉快な記事であったろうと思います。
しかし、恨みつらみを買っているお坊さんも事実少なからずいると認識します。
業界では寺の後継者不足など、色々な問題もあると聞きます。
私たち庶民から、真に尊敬を集めるようなお坊さんが増えるといいなと思います。
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
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